昔は「不登校」というと、「怠けている」とか「無理にでも学校に連れていくべきだ」という風潮がありました。時が流れ、ずいぶんと「不登校」に対する考え方も変わってきました。
「無理に通わせない」「子どもの気持ちに寄り添う」ことを大切にした方がいい。
学校も親も、そういった考えのもと「不登校」になった子どもと向き合っているのではないでしょうか。
わたし自身も、学校に足も気持ちも向かない子どもたちに、無理に学校に通わせようとすることは解決にはならないと、ずっと思ってきました。
ただ、一方で「子どもの気持ちに寄り添う」ことのむずかしさを実感していました。
どこまで大人が手をさしのべたらいいのか、どこまで子どもの気持ちを尊重してあげたらいいのか…。
「子どもの気持ちに寄り添いましょう」と簡単にいいますが、実際に寄り添ってみると、「これでいいのか」「ここは指摘した方がいいのか」と悩むことがたくさんあります。
これは、不登校中のお子さんに限らず、子育てをしていると、子どもとかかわる仕事をしていると、必ず経験することではないかと思います。
「子どもの気持ちを大切にしたい」「子どもの気持ちに寄り添う大人でありたい」
と同時にぶつかる「寄り添うってどこまで?」「これは寄り添っていることなのか?」という自問自答。今日は、そんな「寄り添う」ことについて考えてみたいと思います。子どもに寄り添いたいと思っている方、自分は子どもに寄り添えているのかと悩んでいる方、一緒に「寄り添う」ことについて考えてみませんか。
子どもに「寄り添う」むずかしさ① 子どもは感情で生きる生き物
本来、子どもは動物的です。本能のままに行動し、喜怒哀楽を全身で表現する。つまり、感情で生きる生き物。楽しいことはずっとやっていたいし、やりたくないことにはなかなか取り組もうとしない。これは、子どもらしいといえば、とても子どもらしい行動です。
たとえば、友だちとけんかをして泣きながら帰ってきた子がいたとします。親は、子どもの気持ちに寄り添い、話をじっくり聴きます。話を聴いてもらい、子どもは少しすっきりします。でも、たくさん泣いたからか、宿題に気持ちが向きません。「宿題やりたくない…」
さぁ、この子の気持ちに寄り添った行動をしようとすると、どんな行動になるでしょう。
A「いいよ、いいよ。宿題は今日はやらなくていい」(気持ちが沈んでいるから仕方ない)
B「泣いて疲れちゃったんだね。少し休憩してから、宿題いっしょにがんばってみる?」(やりたくない気持ちは受け止めて、やるべきことはできるようサポート)
どちらも、子どもの気持ちには寄り添っています。でも、結果は大きく異なります。これが、感情で生きる子どもの気持ちに寄り添うむずかしさ。どこに寄り添うのか、どう寄り添うのかで、子どもの行動に大きな影響を与えてしまうのです。
子どもに「寄り添う」むずかしさ② 大人が教えないといけないこともある
子どもは、まだまだ発達途中。言葉を覚えて、大人と対等な会話ができるようになったとしても、思考はまだまだ発達途中です。そして、ときに失敗をしたり、つまずいたりしながら、学びを繰り返していきます。
子どもの気持ちに寄り添っていれば、子どもは自立できるのか…。わたしは、そうはいかないのではないかと思います。
もちろん、自分の経験から多くを学びとり、自分の糧とすることができる子もいます。それでも、多くの子どもたちが、学校や社会、家庭の中で「これは正しい」「これは間違っている」「これは大切」「これは人を傷つけてしまう」などということを学んでいるわけです。
そこには、必ず影響力を与える大人の存在があります。大人が言葉で言い聞かせるかどうかは別として、その身近な大人の言動や態度、日ごろの姿勢などから、子どもたちは学びとっています。
そして、ときに「寄り添う」けれど、教えなければならないこともある。子どもの気持ちと反するかもしれないけれど、大人が指標をしっかり示さなければいけないときがあると思っています。
たとえば、友だちのものをこっそり持って帰ってきた子がいたとします。子どもの気持ちは「ほしかったから、持ってきた」でしょう。その気持ちに寄り添うと「そうか、ほしかったんだね」…
このあと、どんな言葉を続けますか?
A「でも、人のものを勝手に持ってきてしまうのはよくないことだよ。なぜかわかる?」
B「それじゃ、新しいものを買ってあげるから」
他にもいろいろ声かけの仕方はあると思いますが、このAとBだけでも、子どもの学びは大きく変わりますね。Aだと、子どもは「ほしくても、勝手にとることはよくないことなのだ」と学びます。一方、Bだと「ほしいものがあれば、買ってもらえるんだ」ということを学びます。
子どもに学びとってもらいたいことは何なのか。
子どもに「寄り添う」むずかしさ③ 寄り添うことは「自由」とは違う
寄り添おうとすればするほど、「子どもの自由にすればいいってこと?」と悩まれる方もいるのではないでしょうか。
子どもの気持ちに寄り添っていたら、いつの間にか「自由」との区別がつかなくなってしまった…
子どもの気持ちに寄り添うということは、子どもの気持ちをそのまま実行するのとは違います。でも、その違いがとてもむずかしい。
たとえば、「宿題をやらずにゲームがやりたい」と子どもが言い出したとします。子どもの気持ちに寄り添って「宿題をやらずに、じゃ今日はゲームをやっていいよ」という日があってもいいかもしれませんが、それが毎日続いたらどうでしょう。
多くの場合、そのうち、宿題はまったくやらなくなりますね。そして、ゲームもやめられなくなる。子どもは感情の生き物です。自分がやりたいことだけやっていれば、それはハッピーだし、機嫌もいいはずです。
でも、それは、子どもの自立につながるでしょうか。やりたいことだけをやって自立できるのだろうか?と少し、考えてみてください。
今の自分の生活を思い返せば、分かりますね。成長していく過程で、必ずやりたくないことにも遭遇します。それを全部やらずに、大人になったら…、どんな大人になるでしょう。
子どもの気持ちに寄り添うというのは、「宿題をやらずにゲームがやりたい」というその時の気持ちに寄り添うということ。「そっかぁ、そんな日もあるよね。今日のそんなに宿題むずかしいの?」と声をかけるだけでも、子どもの気持ちに寄り添うことになります。
「これでいいのかな?」と迷ったときには、ぜひ、それが子どもの自立につながるのか?と考えてみてください。もしかしたら、違った寄り添い方があるかもしれません。
子どもに「寄り添う」むずかしさ④ 寄り添っていても、時には対立…
子どもを育てていると、時には「親としてゆずれないとき」というものが訪れることがあります。教員時代でも、この「ゆずれないとき」というものはありました。
子どもが成長していく上で、迷ったり寄り道したりすることがあります。よく、わたしは自転車に乗りたての子どもにたとえますが、自転車に一人で乗れるようになるまでを思い浮かべてみてください。
はじめは、補助輪をつけて、親が手とり足とり教えたり、支えたりしながら練習します。これが、幼児期ですね。親のサポートを受けながら、自転車に乗る感覚を覚えていく時期。そして、いよいよ補助輪を外して一人で乗る練習をはじめます。これが、小学生。
親の手は離れますが、まだまだ目を離せない時期。好奇心から急坂を下ろうとしたり、曲がり角をしっかり確認せずに飛び出したりすることがあるかもしれません。
親は、それを近く見守りながら、ときに「危ない!」と感じたら、強制的にブレーキをかけることがあるでしょう。それは、子どもの命を守るため。そっちへ行くと間違いなく危険な道へ行こうとしていたら、一度止めてハンドルの向きを変えることもあるかもしれません。それも、子どもを守るため。
子どもの感情は大切にしたいものです。けれども、子どもの危険を察知しながら、それを止めないでいたら、子どもはどうなるでしょう。
子どもの気持ちに寄り添うことは大切ですが、ときには身近な大人がストップをかけることも必要です。一度立ち止まり、考えさせることが大切です。
子どものことを本当に思ってこその対立は、やがて子どもにとってプラスになる日がやってきます。「子どもに嫌われるのではないか」「子どもの心が離れるのではないか」と心配される方もいるかもしれません。でも、今までたくさんの子どもたちとかかわってきた経験では、子どもたちとの信頼関係が築けていれば、それで心が離れることはありません。
逆に、子どもたちは見抜きます。間違っていることを「間違っている」と指摘してくれる大人に信頼を寄せる子もいます。
その対立は誰のため?子どものためではなく、大人のためであったら、子どもの心は離れていくでしょう。でも、その対立が本当に子どものためを思ってのことならば、子どもたちの心にはしっかり響くはずです。
子どもに「寄り添う」むずかしさ⑤ 「守る」と「見守る」のバランス
子どもが傷ついている、子どもが悲しんでいる、子どもが苦しんでいる。
そんな姿を見るのは、本当につらいことです。子どもは自分で正しい選択ができないことがあります。だからこそ、身近な大人が守ってあげることが大切。
学校がつらくて苦しい子には「休んでいいよ」と声をかけるだけで、その子の心は救われます。無理してがんばりすぎている子に「そんなにがんばらなくてもいいんだよ」と言ってあげたら、どんなに楽になるでしょう。
これが「守る」です。
一方で、子どもの行動や判断を「身守る」ことも大切です。親が何から何までやってあげたり、子ども同士のトラブルすべてに親がかかわったりするのでは、子どもは学ぶチャンスを失ってしまいます。
どこまで見守り、どこから守るのか。このバランスは、とてもむずかしいと感じます。
学級担任をしていたときも、ある程度子どもたちの自主性に任せ、少し離れた場所から見守りつつも、「これは…」というときには、子どもの中に入っていく。何から何まで先生が解決してくれるのでは、子どもたちは育ちません。それでも、子どもだけに任せておくと、とんでもない方向に物事が進むこともあるものです。
主体性を大切にしつつも、舵取りは大人がする。それも、あたかも子どもが自分自身で舵取りをしているかのように感じられるサポートができれば、子どもたちは自信をもって、どんどんと成長していきます。
子どもの身近にいる大人が、しっかり自分軸をもっているか、そして舵取りができるか。大人自身が試されているのかもしれません。
【まとめ】子どもに「寄り添う」こと=ありのままを受け入れる
「子どもに寄り添う」ことのむずかしさについて、今日は書いてみました。長年子どもたちにかかわってきた経験があっても、子どもに寄り添うことはむずかしいと感じます。
そして、その寄り添い方は、さらにむずかしい。一人ひとりの子どもによって、寄り添う方法が違ってくるからです。
でも、どの子にも共通していえることが、ひとつあります。
それは、「その子のありのままを受け入れる」ということ。否定したくなるような感情も、追及したくなるような言動も、とりあえずいったん受け入れること。
これが「子どもの気持ちに寄り添う」なのではないかと思っています。
子どもがやりたいことを好きにやらせることとは、少し違います。もちろん、それをやることで子どもがさらに成長にし、親もそれを望んでいるのであれば、やりたいことにチャレンジさせてあげることは、とてもすばらしい経験になります。
でも、子どもの思い通りに親が合わせる必要はないのではないでしょうか。
子どもは、まだまだ発達途中、大人のサポートが必要です。とはいえ、子どもは親とはまったく違う一人の人間。一人の人間として、尊重し、思いを受け入れる。それこそが、「寄り添う」一歩なのではないでしょうか。
言葉ではいろいろ書けますが、実際にやってみるのはむずかしい。これが、自分の子どもとなるとなおさらです。
子どもの気持ちに寄り添える親になりたい。親修行は、まだまだ続きます。
今、子どもとの関係に悩んでいる方、寄り添うことがむずかしいと感じている方、一人ではありません。わたしも悩んでいます。みんな悩みながら、親になっていく。
誰かのベストな方法が、自分のベストな方法とは限りません。迷ったときには、それは誰のため?何のため?を自問自答してみてください。それが、子どもため、そして子どもの自立のためであるなら、大丈夫。道は、きっと開けます。