不登校になるきっかけや理由は、ひとりひとりさまざまです。学校には行っているけれど「学校に行きたくないなぁ」と思いながら通っている子も、中にはいるでしょう。
そんな子どもたちの中には、学校に「当たり前」にある「みんな同じ」であることに違和感を感じている子もいるようです。
当たり前すぎて、見えてなかった、この「みんな同じ」。学校から離れ、学校に足が向かない、学校がつらい場所になってしまう子どもたちのことを考えるようになり、気づいたことがありました。
それは、こわいくらい当たり前に流れている「みんな同じ」という空気です。わたし自身、もともと学校で働いていた身なので、知らない間に「みんな同じ」を強要していたところがあったのかもしれません。
今日は、この学校に当たり前にように流れている「みんな同じ」という考え、空気について、シェアしたいと思います。普段、あまり考えることがない「みんな同じ」という感覚を、ちょっと視点を変えて考えてみませんか。
学校という場、その場になじめない子どもたちへの理解につながればと思います。
学校で「みんな同じ」が大事にされてきたわけ
学校という場は、昔から「みんな同じ」という考えの上に成り立ってきたのではないでしょうか。それは、おじいちゃん、おばあちゃんの世代から、今の子どもたちまで、変わらず根底にあるもののように感じます。
そもそも、学校はなぜ「みんな同じ」が根底にあるのでしょう。あくまで個人的な考えですが、思い当たるものを挙げてみます。
① 大人が子どもを管理・指導しやすいため
みんなが同じ行動をとれば、管理する大人、指導する大人は、とても楽になります。たとえば、授業、ひとりひとり課題が違ったり、進度が違ったりすると、一斉に教えることは不可能です。でも、みんなが同じ問題を同じようなスピードで解き、進めていくことができれば、一斉に1クラス全員の学習を進めることができるわけです。
また、時間割や授業時間なども、同じことがいえるでしょう。同じ時間に同じ教科の学習や活動をすることで、一斉に同じことを習得したり、経験したりすることができます。大人の人数を確保することなく、大勢に教えることができる。これが「みんな同じ」の原点ではないかと考えます。
② 集団行動を学ぶため
日本人は集団行動が得意だといわれていますね。それは、子どものときから、集団で動くことを学んでいるからだともいえます。集団行動を学ぶと何がいいのか、自分のことばかりでなく周りのことを考えて行動することができるようになります。
でも、それって何のため? 少し前に読んだ本に「昭和の頃は、大量生産が必要で、たくさんの人がたくさんのルールに沿ってモノづくりにかかわる必要があった」というような内容が書いてありました。つまり、出る杭は打たれる。出ない杭、みんな同じ杭が必要だったということではないでしょうか。
③ 協調性が育つと思われてきた
集団で生活すると、たしかに協調性は育ちます。でも、集団で生活することと「みんな同じ」は違う。ひとくくりにされがちですが、ひとりひとりが個性的で、その個性を発揮できる環境の方が、実は協調性は育つと思っています。
「みんな同じ」と画一化された環境では、同じように動くことが当たり前で、違いを認めたり、必要なときに協力することの大切さを学んだりする機会は少なくなってしまうのではないでしょうか。
以前、ものすごく個性のつよい子どもたちを受け持ったことがありました。ひとりひとり個性的、「みんな同じ」という枠にはとうてい入らないような子どもたち。でも、結果、ひとりひとりの個性を大切にしたことで、クラス全体が「ここぞ!」というときに団結し、とてもおもしろいクラスに成長したことがありました。
「みんな同じ」と協調性は関係ないとはっきり実感できた経験でした。
④ 自由が行き過ぎると制限がきかなくなるのを防ぐため
自由というと、何か問題が起こるのではないか。とんでもないことになるのではないか。教育現場には「自由」を避ける風潮があります。それは、もちろん、問題を未然に防ぎたいから、子どもたちの安全や安心を守るためなのだと思います。
高校生の服装が自由になっている学校もずいぶんと増えてきましたが、当時「制服をなくして、服装を自由にする」という学校について、いろいろと賛否両論があったことを覚えています。
「自由になると制限がきかなくなる」たしかに、一理あるのかもしれません。でも、自由にすることで、責任がうまれるということもあります。
今の学校は、とても窮屈に感じます。何か問題があると「○○禁止」となり、子どもたちの行動や持ち物にたくさんの制約がでてきます。禁止にすることよりも、それがなぜ悪いのか、危険なのかを、うんと考えさせ、子どもに選択させる方が、よっぽど子どもたちの考える力につながるのではないかと思うのですが…。なかなかむずかしいですね。
⑤ 社会に適応しやすく育てるため
②の集団行動とも関係があるかもしれません。もともと、学校は「小さな社会」ともいわれています。将来、社会に出るための練習をする場所。社会に適応しやすいように、子どものときから集団で学び、集団で行動する練習をする。
たしかに、社会的なマナーやルールを子どものときから学んでおくことは、とても大切です。日本人の道徳心が強いのは、幼いころからしっかりルールやマナーを学んでいるからだといわれています。
でも、それは「みんな同じ」でいいのでしょうか。ルールやマナーは、ときに一律にはいかないこともあるのではないでしょうか。ひとりひとりの特性によって、そのルールが守れないこともある。ほかの人から見たらマナーが悪い行動をしてしまうかもしれない。
その視点が、足りないように感じます。「みんな同じ」土台にいると、違った行動をしている人がおかしい。違った行動をしている人が悪いになりかねません。
少しずつ社会に変化が訪れているように、学校の「みんな同じ」も変化していく必要があると感じます。
学校では「みんな同じ」より、「みんな違う」を大事にしたい!
「みんな同じ」を根底にもっていると、違うものを排除したり、違うものをみんなと同じように変えようとしたりしたくなります。「みんな同じ」なのに、なぜあの子だけ違うの?「みんな同じ」なのに、あの子だけ特別なの?という発想になりがちです。
これを「みんな違う」に変えてみたらどうでしょう。これを読んでいる人がもし先生だったら、「みんな違う」からどうやって子どもたちに教えたらいいのだろう? もし子どもだったら、「みんな違う」からみんなで協力するにはどうしたらいいのかな?「みんな違う」けど、どんなルールがあったらみんなが気持ちよく過ごせるかな?
まったく違う発想がうまれてきませんか。
これからの社会、人と同じことよりも、人と違うことを求められることが多くなることは確かでしょう。「個の時代」といわれる時代を生きていく子どもたちに、あえて「みんな同じ」を教える必要はあるのでしょうか。
学校は、集団生活の場、小さな社会。これは、これで、とても大きな役割を果たします。でも、その根底に「みんな同じ」ではなく「みんな違う」という考えがもっともっと浸透すれば、今よりも、子どもたちにとって居心地がよい場になるのではないでしょうか。
「みんな同じ」に違和感がある子は、これからの社会で大活躍できる子かもしれません。「みんな同じ」でなくていい!金子みすゞさんの詩にもありますが「みんな違って、みんないい」。本当にそれが子どもたちに伝わる社会になればいいなぁと、心から願います。