教員をしていたころは、学校のこと、自分の受け持っている子どもたちのことで手一杯で、ほかの学校のことや違う地域に住む子どもたちのことまで意識が向いていませんでした。
でも、世の中にはたくさんの不登校の子どもたちがいて、その親たちは悩んでいる。学校から十分な支援が得られず孤独を感じている人もたくさんいる。
そんな現状を目の当たりにし、胸がしめつけられるような気持ちでした。
「なぜ不登校の子どもたちへの対応がうまくいかないのだろう」
今日は、その原因をお伝えしたいと思います。これがすべてだとはいえませんが、少しでも不登校の子どもたちへの対応の改善につながればと願います。
学校の不登校対応がうまくいかないわけ① 学校の視点は「未然防止」
長年学校にいて感じていたのは、学校は「未然防止」をするために動くということ。いじめの問題にしても、学級崩壊にしても、問題が起きないようにどのように対応するかに焦点をあてています。もちろん、これも、とても大切な視点です。
ただ、未然防止に視点がいっていると、問題が起きたときに対応しきれないのではないかと感じます。
昔と比べると、少しずつ学校現場も変わり、問題が起きたときのフローチャートのようなものができてはいます。が、実際、本当に何か起きたときに、どのくらい個々が動けるのか、学校として対応できるのかは、未知なところがあります。(頻繁に何かが起こっていて、具体的な対応策がきちんとできている学校もあります)
さて、不登校についてはどうでしょう。少なくとも、不登校の子どもがいた場合の対応策のようなものは、わたしの勤務校では見たことがありませんでした。
その代わり、不登校にならないように、「お休みが続いたら連絡を」「電話だけではなく、家庭訪問を」のように、「不登校を未然に防ぐようにこうしましょう」というものはありました。
つまり、不登校の子どもたちにどのように対応するのかは、個々の教員にゆだねられていることが多い。つまり、学校としての対策がしっかりと組まれていない場合が多いのだと思います。
さいわい、わたしが実際に勤めていた学校では、対応について具体的な方針はありませんでしたが、チームで支援方法を考える体制ができていました。でも、すべての学校にそのような体制があるとは限りません。
もっと具体的に不登校の子どもたちへの支援を考える場と、体制をつくっていく必要があると感じます。
学校の不登校対応がうまくいかないわけ② 不登校への理解の差
不登校への理解というのは、個人差があるものではないでしょうか。不登校の子どもたちがどんなことを考え、感じているのか。親がどのような気持ちで過ごしているのか。100%理解することはできなくても、想像すること、気持ちに寄り添うことはできるはずです。
不登校への理解度というのは、教員でも個人差が多いと感じます。「子どもに寄り添いたい」という教員もいれば、「学校に来てくれないと何もできない」と感じる教員もいるようです。また、不登校の子どもたちを受け持った経験がない教員にとっては、理解する機会さえもないのかもしれません。
大切なことは、他人事ではなく、不登校の子どもたちや親の気持ちを少しでも理解しようとしているのか、ということではないでしょうか。
自治体によっても違うと思うので一概には言い切れませんが、不登校の子どもたちへの理解の場は、まだまだ限られているように感じます。教員研修などを活用し、もっと不登校への理解が深まることをのぞみます。
そして、教員に限らず、周りの大人たちが、もっと不登校の子どもたちを理解しようと努力しなければいけないのではないでしょうか。
学校の不登校対応がうまくいかないわけ③ 教員の限界
以前「不登校は学校だけでは解決しない」ということをお伝えしました。
そこでも、書きましたが、すでに教員は限界です。教員不足、多忙化、仕事量の多さ…、そんな限界の状況にいる教員にも、もっと目を向けてほしいと思います。
熱意のある、子どもたちへの思いも強い教員が、仕事量の多さ、休めない忙しさで倒れています。
「子どもたちのために力を使いたい」と思っている教員もたくさんいます。不登校で苦しんでいる子どもたちとどのように接したらいいのか、何ができるのか、試行錯誤している教員もいます。
でも、すでに限界。一人の人間がこなせる仕事量には限りがある。気持ちも力もある教員たちが、目の前にいる一人ひとりの子どもたちにしっかり向き合うことができる環境を整えてほしいと心から願います。
一クラスの受け持つ子どもたちの人数を減らし、担任ではなければできない仕事以外は、他にお願いできる体制を作る。本来、教員の仕事は、目の前にいる子どもたちと向き合うことだったはず。その原点に戻れるように、教員の働く環境の改善を強く求めます。
学校の不登校対応がうまくいかないわけ④ 時間的余裕のある教員がいない
さきほど、書いたことと少し重複しますが、教員の仕事が多岐にわたりすぎているように感じます。目の前の子どもたちと向き合う時間より大切なものはないはず。それなのに、それ以外の仕事量が尋常になく多いです。
不登校の子どもたちへの対応が、なかなかうまくいかないのは、学校に来ている子どもたちへの対応、学校でやらなければならない仕事に追われているからかもしれません。
ではどうすればいいのか。
不登校の子どもたちに対応できる支援体制をつくる。そのために、人を増やす。時間的に余裕のある教員が必要です。
家庭訪問をしたり、一緒に遊んだり、学校の個室で一緒に過ごしたり、一人ひとりの子どもたちの状況に合わせ、臨機応変に対応できる教員がいれば、ずいぶんと違ってくるのではないでしょうか。たとえその年の担任といい関係が築けなかったとしても、その教員だったら心を開けるということもあるのではないかと思います。
少し前から、学校には、児童支援担当という立場ができています。わたしも、教員時代、この児童支援担当の先生たちには、本当にお世話になりました。一人では対応できないところを助けてもらったり、チームとして動く対応策を練ったり、なくてはならない存在だと思います。
ただ、それでも、児童支援担当の先生たちが、十分な時間的余裕があるかというと、そうではありませんでした。
一人で全学年の個別に支援が必要な子どもたちにかかわり、支援していく。支援だけでなく、授業も受けもっていたので、時間に余裕があるどころか、余裕がまったくない中で、子どもたちのために奮闘していました。
不登校の子どもたちをはじめ、すべての子どもたちのためには、個別に子どもたちにかかわることができる教員をもっと確保する必要があるのではないかと思います。
そういった立場の教員が増えれば、子どもたちも「この先生なら…」という出会いができるかもしれません。また、親ももっと学校に相談しやすくなるのではないかと思います。
学校の不登校対応がうまくいくために…
不登校の子どもたちへの理解がもっと広まるように、不登校の子どもたちの居場所がもっと増えるように、不登校という言葉がなくなる社会が訪れるように、自分に何ができるのだろう…と日々考えています。
こんなふうに発信しても、何も変わらないかもしれません。でも、もし一人でもこれを読んで何かを感じてもらえたなら、それが小さなきっかけになるかもしれない。
「バタフライエフェクト」という言葉をご存知ですか?
バタフライ効果ともいわれる言葉ですが、蝶がはばたく程度の非常に小さな攪乱でも、遠くの場所の気候に影響を与えることから、「小さな変化が、大きなものを生み出し得る」という意味で使われています。
一人ひとりの小さな行動が、いつか大きな変化を生み出す。
わたしの小さなつぶやきも、何も発信しないよりかは変化につながるのではないかと考えています。
フリースクール「ぶあの家」も同じです。もし、わたしを必要としてくれる子どもが一人でもいるのなら、その子のために力になりたいと思っています。